ティコティコの空

ヤフーブログから引っ越してきました。日常を綴るだけのブログです。

洗礼

(昨日の西の空)

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(東の空)

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(神々しい空)

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(今朝の空)

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21日、敬老の日、義母と夫の三人でお墓参りに行ってきた。

(まだ蕾の彼岸花)

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義母は「普段の仏様を思う気持ちの方が大切」と言って

お彼岸や、お墓参りの習慣にあまり頓着しない。

「あら、お彼岸?忘れとったが~」と言うくらい

大変大らかな、囚われない、こだわらない考え方の持ち主である。



実は私も日本の伝統的仏教の様々な決まりごとに疎く

正直ご先祖様には申し訳なく思っている。

だから、義母のような人が姑でよかったと思ったこと数限りなし・・。







私は幼い頃(4~5歳)洗礼を受け、(正しくは親から受けさせられ)

カトリック信者になった。

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洗礼名は、スペイン語でRosa Maria 、 英語名ではRosemary

夫は

ローズマリー?なんだかストリップ劇場の看板に出ているような・・・ほら、ローズマリー来たる!!って。」


「・・・・・・  神よ、夫をゆるしたまえ」



また、夫は私の事を「似非クリスチャン」とのたまう。

でもまんざら間違っていない。

幼い頃教会につれて行かれても

長時間の祈りが苦痛で苦痛でたまらなかった。

(インターネットより)
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話の内容もさっぱり分からないし

日曜日にどうしてこんな辛気臭い所に

いなければならないのだろうとウンザリしていた。


(今使っているロザリオ)
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しかし今思い返せば・・・

悪いことをすれば神様が見ていて

必ず罰が与えられる、と徐々に罪悪感と

言うものを植えつけられていったように思う。


少しでも悪いことをしたと自覚すれば

日曜日には必ず教会に行って懺悔する。


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悪いことと言ってもたかが知れている。

誰ちゃんをたたいた、

誰ちゃんの悪口を言った、

兄弟げんかをした、など些細なこと。



チャペルの端の方にある電話ボックス程度の

家の形をした箱の中に神父さまがいらして

格子窓越しに私の拙い話をひたすらだまって聞いてくれる。

こちらの顔はあまり見えない。

見えないどころか、膝まずくので

頭のてっぺんしか見えていなかっただろう。

顔が見えないのを幸いに

どんな些細なことでも告白し懺悔する。


怒られないし、お説教も一切なし!

教会を出る頃は罪悪感と言う

重い肩の荷をおろして帰りはルンルン気分。

なんせ罪を全て許してもらったのだから・・・。

そうして、今からいい人間になろうと

気持ちを新たにするのである。


(インターネットより)
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こういうことの繰り返しが現在の性格の根幹に

多大な影響を与えていることは確かだと思う。



今は宗教と名の付くどんな団体にも属したくないので

教会にも行っていない。

しかし、未だ人間として未熟者だが、自分なりの

教義らしきものは心の中に持っている。

それでいいと思う。


時々夫のへらずぐちにカチン!ときながらも

「友愛」の精神で・・・・許せるように・・ならなければ・・

と思うものの・・・・。


「神よ、わが罪を許したまえ~」の祈りはまだまだ続きそう。