二度目の祝い
昨日の空
今朝の空
昨日、義母の二度目の米寿祝賀会が
小倉リーガロイヤルホテルで開かれた。
前回は我々家族の演奏があり、その準備で忙しかったが
今回はただ着席しているのみ。こんな気楽なことはない。
夫と長男はどうしても抜けられない用事があり欠席。
今回我が家からは私と嫁だけが出席した。
60名の発起人で参加者345名の
大掛かりなパーティーとなった。
北九州市長ご夫妻や前市長ご夫妻
その他北九州市の企業関係、教育関係と
皆さん、連休最終日だというのに集って下さった。
主賓の挨拶の後義母の挨拶が始まった。
先日私が義母を尋ねた時ワープロで
原稿らしきものを書いていたが
それが今回の挨拶文だったのだ。
10分程度にまとめた自分史を
一言も間違うことなく大きな声で語り始めた。
最初の頃壇上の椅子でウトウトしていて少々気掛かりだったがマイクの前でシャキッと。
見合いをした翌日には結婚式。
その二十日後に夫は戦地へ赴きその間銃後を守ってきた。
その二十日後に夫は戦地へ赴きその間銃後を守ってきた。
教師になって赴任した一年後には授業はなくなり
生徒共々色々な工場に動員された。
旋盤工場では高射砲弾を削り、火薬工場や軍帽の穴かがりなどなど。
生徒共々色々な工場に動員された。
旋盤工場では高射砲弾を削り、火薬工場や軍帽の穴かがりなどなど。
そして昭和20年8月8日の八幡大空襲で被災し
無一文の「ホームレス」
無一文の「ホームレス」
その間校舎の裏の農具小屋で寝起きさせてもらっていた。
義母のいる所から見える作法室で何やら教え子達の楽しそうな声。
義母は出て行く気力も体力もなく寝ていた。
義母のいる所から見える作法室で何やら教え子達の楽しそうな声。
義母は出て行く気力も体力もなく寝ていた。
それからまもなくのある日教え子達からのプレゼントが届く。
防空頭巾と綿を持ち寄り義母のために作法室で布団を作っていたのだ。
丸裸の義母が戦後唯一得た貴重な財産は生徒からもらった布団だった。
防空頭巾と綿を持ち寄り義母のために作法室で布団を作っていたのだ。
丸裸の義母が戦後唯一得た貴重な財産は生徒からもらった布団だった。
教師としての在職年数37年。
55歳で退職後その後様々な形で恩返しをしてきた年数34年。
同年になるまで残り三年、どうしても生きていたい。
55歳で退職後その後様々な形で恩返しをしてきた年数34年。
同年になるまで残り三年、どうしても生きていたい。
今回、1921年生まれの母のために
その年に製造されたワインを探し出し
88本プレゼントしてくださった教え子の方。
全員のテーブルに紅白のワインが配られた。
ワイン撮り忘れ、代わりにメインディッシュを・・。
毎年同窓会にはあちこちのクラスからお呼びがかかる。
教え子達から愛され続けている。
皆さんが口々におっしゃる義母の
人間的な魅力とは何だろうとよく考えてみる。
色々心当たりはあるが一言で言えば
「人間愛」かな。
見返りを求めない。
世のため人のため。
それが根底に流れているように思える。
数年前階段から落ちてケガをした時
「私は倒れる時でも前向きに」と言っていた。
当面のライバルは同じ年の森光子。
全てを明るく前向きに捉える義母の生き方考え方は素晴らしい。
私も見習いたいものだが、器が小さすぎて到底無理だと
つくづく思い知らされた今回の一連の祝賀会だった。
最後は皆で炭坑節を踊って締めくくり