白蓮れんれん
おはようございます!
今朝は全国的にお天気が芳しくないようですね。
さて、
先日に引き続き
旧伊藤伝右衛門の豪邸から~
「ひな祭りを見に行ったはずなのにお雛様の写真がないのはいかがなものか~?」
との皆さんの声が聞こえてきそうですので~・・・ないですかぁ。(笑)
広間に飾られていた人形もさまざまなお顔があって
一人ひとりの表情を見るのも楽しいものでした。
美しいお雛様もいいのですが
私はどうしてもちょっと変わった毛色の物に興味があるようで
こんなものばかりカメラに収めてきました。
と言うことでお雛様は終わります(笑)
伊藤伝右衛門は言わずと知れた炭鉱王。
この方、49歳の時妻を亡くしました。
そこへ嫁いで来たある女性が今日の主人公です。
~白蓮~
燁子は1911年(明治44年)、27歳で、52歳の九州一の炭坑王として財をなし、政友会の代議士であった伊藤鉱業社長・伊藤伝右衛門と再婚させられた。これは兄・義光が貴族院議員に出馬するため資金が必要だったことと、名門との関係を結びたかった伝右衛門の思惑が一致した[3]政略結婚と目されたが、当時のマスコミ(主に新聞)では片や名門華族、もう一方は飛ぶ鳥落とす勢いの炭鉱成金同士の結婚ということで“黄金結婚”と大いに祝福された。伝右衛門は飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったが、さらに福岡市天神と別府市青山に屋根を銅で葺いた別邸(どちらも赤銅(あかがね)御殿と呼ばれた)を建て、燁子を迎え入れた。
(ウイキペディアより)
こう言ってはなんですが
飯塚市は当時は石炭で沸いた街だったでしょうが
他にオシャレなお店があるわけでもなく
華やかな世界に育った人にとっては
島流しにあった感覚だったのではないでしょうか。
元々が政略結婚の上
妻妾同居の異様な生活が続くわけがなく
結局は破局を迎えますが
その終わり方が’姦通罪’などと言う言葉がまかり通る
当時の時代背景を考えるとなかなか刺激的で
世が世ならワイドショーの恰好の餌食になっていたことでしょう。
駆け落ちした相手の宮崎龍介に宛てた手紙が
彼女の性格の強さを表しています。
すったもんだの末、二人は正式な夫婦となり
白蓮1967年に81歳でこの世を去ります。
二人の間に生まれた長男の香織さん。
出兵の時に撮られた写真ですが終戦間近に戦死。
華麗で過酷で激烈な人生を歩んだ白蓮でした。
それにしても若い妻を迎える初老の男の
涙ぐましい努力が家の隅々から垣間みえてきます。
友人によればこの家は住む人もなくかなり傷んでいたそうですが
街起こし事業の一環として手を加えられ
今では明治のブルジョワの生活をじっくり見ることのできる
大変素晴らしい観光名所になっています。