ティコティコの空

ヤフーブログから引っ越してきました。日常を綴るだけのブログです。

天安門事件から四半世紀が経ちました



おはようございます。

今朝ニュースを見ていたら天安門事件から25年云々・・・」の声。
四半世紀・・・早いものだな~と思います。

1989年6月4日。私たち家族は北京に住んでいました。
歴史的な事件を天安門から二キロほど離れた宿舎から垣間見ることができました。

「北京滞在記」と題して北京での出来事を綴っていこうとずっと思っていましたが
25年という節目に当たる今日、「天安門事件」に絞ってここに書き記しておこうと思います。




1988年、夫は家族より先に北京に赴任し、私と三人の子供は夫に遅れること半年。
10月に北京入りしました。
1985年にアメリカから帰国し、福岡に一軒家も構え、さあこれから地に足をつけた落ち着いた生活ができると思っていた矢先の転勤に、はじめの頃は単身赴任をお願いしていましたが、やはり家族は常に一緒にいなければとの思いから三人の子供たちを引き連れての渡航となりました。

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1988年12月11日 天安門近辺に遊びに行った時撮った写真です

1年間という約束なので気は楽でしたが子供たちを日本人学校に入れたり、様々な生活の変化に戸惑うことばかりでした。
しかし、北京での生活にも慣れてきた頃、家族旅行先のシンガポールから戻ってみると(これには訳があるのですが、ここでは割愛します)街の様子が一変していました。
出国するときから天安門近辺では政治的にきな臭い様相を呈していて、時々民衆がプラカードを掲げて練り歩く「デモ」まがいの集団もいましたが、まだまだそこには笑顔も見えるお祭りに似た雰囲気がありました。

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’88 5・17

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’88 5・20



ところがそのお祭りが一気に殺気立った雰囲気に変わったのが6月2日のことでした。

その時の様子を書いた日記がありますが、午前2時に長安街(北京市を東西に走る幅百メートル道路)を
音もなくヒタヒタと天安門に向かう無数とも思える兵士を目撃したところから始まっています。

「手には何も持たずヘルメットらしきものもかぶっていないようだ。白い上着に黒っぽいズボン。肩に荷物を持っていた。あのような異様な光景を目にしたのは初めて。」
翌3日には・・・
「午前1時半頃夫の帰りを待ちながら長椅子に横になっていたらゴーっという耳慣れない音。
外を見ると戦車が猛スピードで走り抜けていった。その後ろを自転車が200~300台追いかけていた。」
「数分後、数人の市民が道路を塞ぐように柵を横に並べてバリケードを作っていた。その直後戦車がやってきてその柵を乗り上げ火花を散らしながら突破してしまった。」

この日から日本婦人会の連絡網が大使館領事部からの伝達を回し始めました。

日本婦人会連絡網 ①
1 本日、戒厳部隊指揮部が緊急通告を発した。
① 戒厳令を厳守すべきこと
② 戒厳部隊の行動を妨害してはならず、あえて違反する者に対しては一切の必要な手段をこうじ強制措置をとる旨呼びかけております。さらに、全市民に対して外出を控えるよう、特に天安門の付近に立ち寄らぬように求めております。ついてはここ当面可能な限り外出を控え、特に騒乱が予想される天安門、しんか門(漢字不明)付近に立ち寄らぬよう十分安全に留意してください。

そして4日・・
「午前5時半頃物音で目覚める。外を見ると数十台のトラック、その後を戦車が続いてやってきた。まだ街灯も消されていない明け方、ゴーッと地の底から湧き上がるような不気味な音。鉄の塊が次々と続く。私は何枚もフラッシュをたいた。埃が舞い上がり迷彩色の戦車が進んでいった。」

ここから先は目撃していませんのであくまでも憶測ですが学生や女性、子供が1万人以上亡くなったとか、いや、40~50人だった、とか噂はどれも確認の取れないものばかりでした。

「午後10時前。軍のトラックが銃声を3発、パーン、パーン、パーンとならして前の道を走っていった。
今のところ外に変化なし。今日は午後から雨。今もまた雨が降っている。」

日本婦人会連絡網 ②
① 昨深夜より、本日4日未明にかけて、戒厳部隊が天安門広場に於いて強行突破を行ったため市民との間に衝突が、市内各地で発生し中国人に死傷者が出ています。
② 北京政府は昨夜外出禁止令を発しています。本日は引き続き混乱が予想され危険です。

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軍人

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こうして窓から写真を撮るのは危険だと、あとで教えられました。(遅い!)


しかし、こんな混乱の中、私たちは夕方テニスに出かけています。その帰り道に幼顔の兵士を満載したトラックが天安門方面に進んでいるのを見ています。その後分かったことですがモンゴルから急遽かき集められた兵士だったようです。
この間、日本との電話も繋がらない状態。私の日記には知人からの情報が書かれていますがすべて「~らしい」「~と思われる」で終わっています。

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我が家から見た長安街。右手側(西)が天安門です。

上の写真、撮影日を見てみると6月4日と7日になっています。
大規模な軍と民間人との衝突があったのが4日。群衆が見えていますが、右側の写真には通勤や通学の人の乗っている自転車しか走っていません。

5日になると連絡網に一時帰国の情報が入ってきています。
日本婦人会連絡網 ③
① 明後日の全日空の切符はまだあります。
② 帰国の人は地域連絡員まで必ず連絡をお願いします。

そして最後の連絡網は・・

日本婦人会連絡網 ④
JAL,ANAが7日8日に臨時便を出します。
① JAL 7日 14:45 8日 18:35 上海経由成田
② ANA 7日 18:00 8日 15:10 成田直行

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中国で買って付け始めた日記には5、6、7日の様子が詳細に書かれていますがその時の興奮が行間から伝わってきます。
外の様子、人の噂話、うちで雇っていた(当時、外国人は中国人を雇用しなければなりませんでした。外貨獲得のためでしょう)コックの李さんが危険を顧みず我々に食料を持ってきてくれたこと。そしてその時々の心情などが思い出されて25年前の自分と話をしている気分になりました。それをそのまま書いていると一日では終わらないのでこの辺で。


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北京滞在最終日
7日、日本航空の臨時便が出るというのでJALの知人に頼んでそれに載せてもらうことにしました。
しかし、北京空港に着く直前、マイクロバスが動かなくなるというアクシデント。やっと代わりのバス(北京日本人学校のスクールバス)が到着して無事空港に辿りつくことができました。
日の丸を掲げていても軍は発砲すると言われていたのでとても怖い思いをしましたが今となっては北京での一つ一つの出来事がとても貴重な体験だったと思います。
そう言えば、先日のOG懇親会にその時の臨時便に乗務していたパーサーがいました。
その女性は長時間フライトのギネス保持者なんですよ。

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マスコミの取材を受ける夫

成田に到着するとマスコミに取り囲まれてあちこちから写真を撮られてしまいました。
ここで初めて日本での報道がどれほど加熱していたかも知らされました。
現地にいると渦中にいる割に報道されるほどの緊張感がなく、前述したように家族でテニスを楽しんだり、空港に向かうバスの中から見た市内の風景は、おじいさんが川で釣りをしていたりと、あまりにものんびりしていて肩すかしを食わされた感がありました。この温度差は一体なんだろうと今でも不可解な部分ではあります。

この事件が落ち着いた四ヶ月後、残務処理のため夫婦だけで北京を再度訪れました。
アパートは上の階の住人が水道の栓を全開のまま(避難した当時ちょうど水道管の工事中)帰国したので階下の我が家は水浸しでした。
でもこの建物、すでに築60年の古物件でロシア人が作った建物だったとか。天井も床も相当に古くなっていたのでさして傷んだ様子ではありませんでしたが、唯一の高級品のラジカセがどうなっていたか・・・思い出せません。
あれから25年、まだ無事建っているかしら・・・。

最後に、同じマンションに住んでいたアメリカ人ご一家と一緒に写したものを。

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リンカーンによく似たご主人はピューリッツアー賞を受賞した方で東京に滞在中に昭和天皇崩御に遭遇し、今度は北京に移動になったら天安門事件に。報道に携わる者としてある意味とてもラッキーだったと話していたのが印象的でした。
この末っ子の男の子(名前を忘れたわ)、娘と同じ年だったけどあれから25年。
今頃どんな大人になっているでしょう。





この天安門事件が世界に及ぼした影響は計り知れないものがあります。
この事件の後、まもなくベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結しました。
そんな歴史を間近に見、感じた数ヶ月間は非日常の世界に住んでいるようでした。
これを機に夫はチャイナウオッチャーになり、いろんな本を読んでは私に話してくれましたが
夫の中国での体験、経験はこれまた私以上に強烈で鮮烈なものだったようです。
また機会があったらそんなことも記録に残しておきたいと思っています。

超長文を最後までお読みくださって、ありがとうございました!